法の下の平等が人間の権利の平等に基づいているのであれば、罪の下に人間の心は公平に扱われなくてはならない。つまり、罪を深く認識することによって人間、社会および世界の関わり合いがわかるようになる。表層的な法的判断における罪と人との扱い方からでは、法と罪との関わり合いが片手落ちになってしまう。

加えて言えば、表面的な問題点に注目して、社会が機械的に機能しているかどうか、という見方だけでは社会や世界における根本的な問題を先送りしてしまう。

そこで、罪(Sin)と犯罪(Crime)の統合的な認知には、宗教的な知性と、哲学的な知性が関連している人間の普遍的主観に帰着することが重要である。また、科学的な側面、例えば、法律学や法医学が客観的に分析するための材料を提供し本人の普遍的主観によって反省させる。

科学的過程には、主観的な相対的価値を排除するが、宗教・哲学・科学が、それぞれの役割に基づいた統合的な手法から、罪を犯した人への対応が他者による修正でありながら、犯罪者自信による修正が促される。

宗教、哲学、科学ともに、次の段階の情報を得てさらに包括的な分析のために体系を構築していく。

しかしながら、犯罪人の自己分析が常に正しいとは限らない。彼・彼女がどのような体系によって自己分析をしているのか吟味する必要がある。そこには、具体的な提言が本人の意思からなされているか、また社会に関係的であるかどうか、なども議論する。

一方、哲学や倫理的手法では、脳による理解は進むかもしれないが、行動に結び付くだけの動機づけにはならないことが多い。そこで、宗教者が行動に直接的な観念的体系と包括的な解答を説き、導くことになる。

これは、人間の精神性の根本または超時間的および超空間的な共通性に基づいた議論である。つまり、ここでは現実・現象・物質的軋轢をどのような見地から対処するかを考えさせる。これは多くの思想が過去から説いて来たことであり、普遍的で、かつ最も重要な指摘でもある。

この行程は完全な役割分担が行えることにはならないかもしれないが、その認識とともに実行することが問題の本質をつかみ、そして適切な処方箋を見つけることが可能だと思われる。

罪と罰の固定的価値感や法律の表層的な文言に対する議論には、本質的なものがなく、状況においては贖罪の山羊としての行為でしかない時もある。このように罪を通して人間が、社会が、世界が見えて来るのと時間を追って変化があるに意味がある。

同じ過ちを繰り返さないような環境を提供すること、また人間一人一人が自分自身で問題を解決していけるようなシステムを構築するための科学であり、哲学であり、宗教なのである。

人間らしさに言及するとすれば探求心なのかもしれない。実際、学問をするのは、人間だけである。一見当たり前のような考えだが、学問

学問と哲学・宗教・科学

学問と哲学・宗教・科学

を遂行することは、奥深い人間のなかの神性を見出す方法論なのである。

したがって、人間個人の知識の量を増やすことを学問とはいわない。これは、「論語」でも指摘しているように、「優れた人には情熱をもって教えをうけ、父母にはよく仕え、主人に対しては、骨身を惜しまずつくし、友人に嘘をつくことがない人は、たとえものを知らないとしても、この人物は学問を身につけているとおもえる」なのである。

つまり、ここでいう学問は、実践、誠実、信義も含んだ上に、宗教的属性、哲学的属性、科学的属性で構成されるものである。

学問における宗教性は、実相(つまり、主観と客観、アプリオリとアポステリオリの統合体)の把握と目的意識の認識。内省による人間意識の統制とその意識を越えたところで自然の背後にある絶対真理との感性的つながりである。

学問における哲学性は、自然・人間の客観的関係の知性的把握と理性的統合。その帰結として普遍性の認識。

また、学問の科学性は、合目的な抽象性の物質化、定量化、実証性、と分類において体系的な価値を見出す。それに加えて、拡張的な意味で実用性における人間への貢献。

それぞれの属性は、本来、互いに排他的事象ではない。かつての宗教には、哲学的、科学的属性が存在しなかった。また、かつての哲学には、宗教的、科学的属性が存在しづらかったし、科学にも宗教的、哲学的属性が存在しづらかった。

しかしながら、学問によって宗教、哲学、科学は統一的に、かつ、自律的に存在し得る。かつて現象的に分類された学問は実在的に一つであるが、それぞれのレイヤーとセグメントは心相において存在する。

これは、学問という言葉のもとに宗教・哲学・科学が堕落させられたわけではなく、すべてのものに崇高な精神を見出す姿勢を学問は意味するのである。