road_drive_freedom人間はひとりひとり自由な精心を持っている。このように認識することはとても大切で、自分が自由であることを望むならば、他人の心の自由を理解しなければならない。

この考え方は、西洋の個人主義、基本的人権の尊重と公共の倫理の認識を啓蒙により、現在は常識的な知恵となってきた。しかしながら、抽象的でその本質を会得している人にとって実質的に把握できるが、教示する上での知見としては不完全になる。

個人の尊重とはなにかということを吟味しなければその本質は見えてこない。多くの人は現象として認知できる他人の行動の自由は尊重できる。また、それは法によっても保証されている。しかし、心から湧き出る思いが自由であることは、表面的には、わかりづらい。それは自身の自由な思いは本人にしか捉えられず、外からは現象を壁として間接的にしか伝わらないからである。

そこで人間の精神の構造と、その動作を考えなければならない。もし、人間が経験だけ、つまり、本能による基本的なプログラミングと生まれた後の外部刺激による入力だけから成り立っているとすれば、その人が何に影響を受け、つまり、どのような事を入力して来て、どのように考えて来たか、つまり、何を出力してきたかによって外部のコントロール可能性が強く働き、彼の行動を理解し予測もしやすい。

しかし、人間を含めて動物、昆虫も行動主義的な理論だけでは理解できない部分が多く、完全に現象的には理解しえない。外部刺激と内部の誘発の繰り返されるあらゆるパターンを統計的に示せても、客観的には認知できない大きなパルスは過去の確率分布を超える。

心の自由性は現象に左右されない上に、先天的な精神の傾向性も人間の自由なパルスにあらがえないこともある。現象的な経験を通じながら精神性によって存在を把握するプロセスを超えるものが、そこに潜在している。

付け加えると、人それぞれに先天的な精神の発展段階の存在も認識されるべきであり、人間の個性を尊重することに繋がる。

「人間の自由の尊重」という命題は、人為的または歴史的に限定された形で理解されていた。しかし、上記の議論からは人の理解と教育は人間の心の自由性の認識、信頼、許容、忍辱以外に歩み寄ることはできないのかもしれない。

measure_measures_rule歴史によれば、イエスや仏陀のような人物が新たな教えを創始したときからそれなりの長い期間は、真理をつかさどる抽象的なものを目指して追い求めることを当然のように人々が行う。

教育が充実し、哲学や思想などによって、その基礎が固められ、文明、文化、芸術が発展する。

個と公共を結び付ける役割の政治が成功すれば、経済も栄え社会への貢献も充実し科学やエンジニアリングも発展する。

このような、文明建設の時代が落ち着くと安定の時代が来る。人々はこの発展や平和を維持するため勤勉に働くが平和ゆえに段々と利己的な態度をとる一方、多様な在り方を奨励するようになる。

ここで方向性バランスが崩れると経済が偏り、価値観を相対主義的にとらえるような人が多くなっていく。

また、現象にとらわれる人々が多くなり、神や肩書は権威の道具と化す。かつて、創設された宗教的または哲学的繁栄がほぼ形骸化すると、また逆向きの作用、すなわち革命が起こる。ここで革命の役割は前の時代の宗教や哲学、つまり原始の体系を思い出させることと、現在に即した新しい方向付けである。

権威からの開放が哲学や科学を発展させるのは歴史を見れば明らかである。改革された宗教文化のもとで哲学、科学が発展するが、絶対性が形骸化された中では純粋な形で科学が発展できなくなるために宗教と科学、哲学がそれぞれ独立した学問として分離化がすすむ。

それぞれが高度に専門化するとともに、現象の細部に固執していく。

西洋の歴史を鑑みると、文明の栄枯盛衰は、このように一般化される。つまり、時間がたつにつれて、宗教、哲学、科学の本質的意義が低下するということ、平和な時期には学問の多くが発展するが人々の利己的な態度にともなって物質主本的になっていくことの二つに集約される。歴史では、最終的に宗教と科学が分離するが、いずれにせよ、時間が経てば多くの価値が形骸化するのはまちがいなかっただろう。

これまでの歴史を振り返ってみると、見えないものを信じることが正しいか、それとも目に見えるものだけ信じることが正しいか、という二者択一的な問は意味をなさないのが明らかだろう。

目に見えないものを信じる心が文明の物質的な面に大きく貢献する原動力となって来たのは多くの人が認めることであり、またその心が権威や物質に直接結び付くことによっておおくの望まぬ現象を誘発するのも認められる。

ここで言う、「目に見えないものを信じる」とは、未知のものに対する畏敬の念を持つことであり、理論の背後にある確定できない根底を思慮することである。一方、「目に見えるものを信じる」とは、浅はかな思慮から来る、その場しのぎのつじつま合わせと、人間的観念から世界を狭める行為である。

見えるものだけを信じる行為は、平和的利己主義から生まれるものであり、その末路は思想の無政府状態である。

しかし、科学的現象と理論の背後にある本質的観念は相反するものではなく、「目に見えないもの」と「目に見えるもの」に対応はしない。

一見、二元的に見えるものは、それぞれの要素を純粋化しプロティノス的およびプラトン的一元論として統一的に見ることができる。

プロティノス的な一元論は万物は一つのものから流出したものであり、プラトン的一元論は、それぞれの物質はイデアへ昇華していくという運動で、二つのものは互いに相補的に一つに表される。プロティノス的運動論は根源的な世界の創造を表現し、プラトン的運動論は世界の成長を表現している。

人間を犯cross_182863罪に駆り立てる要因は数多くあるが、心理的に観れば、犯罪傾向をもつ人とそうでない人の知能的、性格的に大きな違いはない、むしろ犯罪傾向のある人達のほうが優秀な知能を持っていることさえある。また、性格的な優劣が犯罪と本質的に相関関係があるとは思えない。もちろん、ある種の性格が特定の犯罪を誘発もしくは促進する可能性はある。また外部要因として、アメリカの精神医学者ヒーリーによると、愛情関係で拒否されている、理解されない。自己表現の願望が妨げられているという深刻な感情。疎外感、自己不適当感劣等感、挫折感。家族内の不調和、葛藤。同胞に対する激しい嫉妬、敵意。抑圧された心的葛藤に基づく不幸感情。幼いころの行動に対する意識的、無意識的な罪責感があり、個人の無秩序的な判断、極端な思想によって犯罪に駆り立てる、という蓋然性が出てくる。

もっと一般的に社会の不調和の原因を探っていくと、思想的な影響も関連していると思える。そのひとつに科学的唯物思想がある。確かに、科学から神を分離したこと(権威主義からの解放)によって、科学的思考が全世界に根付き、物質的な繁栄に大きく貢献して来たが、それと同時に科学万能主義、無神論的唯物思想が流行っていく。無神論とはなにか、また唯物論とはなにか。無神論とは文字通り神を否定する考えである。本来の宗教においては、神を否定するということは、特に西洋においては異端視されることであるが、数学の体系を構築するにあたって公理を設けないことと似ている。他の科学でもその理論的体系において原理や方法を無視しながら結果を求めることはできない。基本的には科学の体系では公理と論理的方法によって議論が進められる。神を外部にだけ存在させると科学においては神を持ち出さなくても論理体系に従えば、結果が導き出せる。しかしながら、すくなくとも無秩序な形では進められない。秩序だった議論と真理発見への方向性に科学における神性の内部存在がみられる。したがって、神を別な表現でいうと、正しき目的意識といえる。また、唯物論的世界観も無神論と同様に全く方向性を否定したところに問題が発端する。

それらの思想がどのように社会を動かすのだろうか。まず、物質がすべてと思い、人間を含む世界が外部の原因による相互作用の結果だけとみる。未来は全くの偶然の結果でしかないとすれば、刹那的に自己を満足することしか考えなくなる。また、悪い原因はすべて外部からくるものとし、責任を転嫁する。法律で規制しようとする考えも自己保存的でしかなく、それを守る人々は法律の網の目をかいくぐろうとしか考えない。人が信じられなくなり、自虐的な性質であれば、精神障害もしくは自殺にまで自分を追い込み、他虐的ならば、傷害、殺人で他者を追い詰める。自分の有利になるような情報しか流さず、どの情報が正しいのか間違っているのか判断できなければ、例えば、人を殺してはいけないという常識さえも疑うようになる。

犯罪の影響を理性的にみると、まず、現象として社会の調和を乱す原因になる。社会において人間もしくは、それにまつわる諸々のエネルギー、つまり、社会の潜在能力は人々の秩序だったエネルギーと無秩序的なエネルギーの差によってきまる。無秩序的なエネルギーは主に犯罪を導くが、それに関連した運動を中心に社会を調整するのが法律である。

倫理的な観点からは、人間そのものの尊重からはじまる。生きる権利の平等を原理的に保証するもので、犯罪はその原理を否定する。逆に否定するものを犯罪としている。個人の権利の確立を主に主張するが、これは、全体の中で個人が犠牲になりやすい傾向が歴史的にあったためで、今は、法律と相補的に秩序を正す役割にある。現象としての法律はそれ自体に価値はなく客観的な指標として存在し、人類の思考の経済化の手段として倫理的価値を補う立場にある。一方、倫理は環境と法律の歴史を吟味することによって、より包摂化しながら具体的な価値観として進化する。

宗教的な立場に身を置けば、自分と他人との区別がなく、犯罪を定式することもない。物質面からは充分な条件として罪を裁定することはできず、人が人を裁くのではなく、自分が自分を裁くのである、否、そうするようになっているのである。自分の罪を自分で認める行為に対して人はその罪を許すしかなく、罪であるかないかは、実在する理性により理解し、現象的には時間がそれを証明する。全体的な考え方をすると、嘘、窃盗、殺人などの悪い行為はかならず悪い結果を導き、逆に善い行為は善い結果を導く。

背後にある宗教性的観点からは、空間的および時間的に一致するものは複数存在するが、現象的世界ではありえない。したがって、犯罪の絶対的または相対的な扱いは、倫理と法律を含め、それらを包括した形で認識されるべきである。

良薬は口に苦し

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この世界を良くするために、批判は必要。批判精神を全うするには、自分自身にも厳しくなくてはならない。他の人を自分自身のように思いやるべき。

自己保存のための批判は、必ず自分自身に返ってくる。

毒をもって毒を制する場合もある。しかし、生活習慣を改め、生薬を服用しながら、長期にわたって体質を改善することが、もっと大事である。

批判を自身の悪口とは取らず、よりよい世界を実現するための原動力となることを願ってやまない。