人間にとっても社会にとってもバランスがとれた情報ないし知識は時間的にも空間的にも大きくそれ自身の概念を育むことができる。
一方、極論を以ってして、概念を構築しても数々の内部矛盾を引き起こすこととなる。つまり、極論とは原理原則を考慮しない体系であるうえに、事象を簡略化しすぎるところにある。
極論は、宗教の本質的性格と哲学的思考によって改良されることが多い。宗教的な提言は本来、現象の多面性を説くものである。正義の一方的な押し付けは宗教性に属していない。逆に、宗教の表層的側面が極論にまみれるようであれば、宗教改革によってバランスが保たれるように働く。
例えば、マルチン・ルターは、当時の教会が免罪符さえ購入すれば、さまざまな苦罰から解放される、といった極端な理論を批判し、本来、バランスのとれた宗教の在り方を説いた。また、親鸞は当時の仏教が完全に出世のための道具としてしか使われていないこと、しかも、僧侶のためだけの学問としてしか使われない極論を、民衆に仏教をわかりやすく説くことによって本来の宗教のバランスを保った。
哲学的思考は特に人間の倫理と社会の倫理とのバランスをとって来た。また、論理的な考えや思考方法を議論することによって科学の方向性の調整の役割も担ってきた。
もう少し具体的に極端的思想を分析してみる。マルクスの社会主義的論理は、結果的に、極端思想としておおくの人民の狂信・盲信を助長してきたと考えられて来た。その狂信ぶりは凄まじかったとされる。その後、原典の理論の修正が求められ、ベルンシュタインがその極論的マルクス主義を修正したのにもかかわらず、全くといっていいほど受け入れられなかった。ベルンシュタインの理論は基本的にバランスのとれたものであり、その内容は、プロレタリアート独裁による武力改革の方法ではなく、知性や道徳の向上を含めて、着実に社会を改良していく、議会主義に根差した理論をもって、マルクス主義を批判し修正を試みたのにである。
マルクス主義の目的は不当なまでの労働者の貧困化を防ごうとしたことである。しかし、人間の機械化と盲信的唯物論から導かれる必然性、つまり、彼の思想が原理原則に従っていなかったため、早くから崩壊の兆しがみえたのも事実であった。
ベルンシュタインはマルクス主義を完全に否定せずに弁証法的に修正社会主義を提唱したにもかかわらず、マルクス主義狂信者によってその受け入れを拒否された。この様相は思考的バランスを哲学的に調整するというよりも、宗教的な側面における極論、つまり、狂信・妄信に抗う宗教改革的な動きが必要だったのかもしれない。
結局、社会主義思想に関して言えば、相当の深傷を負うまで人民の生活を困窮化させていたということである。
なぜそこまで追い込むとともに追い込まれることを甘受したのか。いくつか原因が考えられるが、マルクスは人民の嫉妬心や悪しき平等主義を表向きに正当化したことにある。つまり、マルクスの言動は簡略化した目的を主張することにより人民に受け入れやすくしてしまったのである。
抽象性を排除したことも狂信者を増やした原因である。つまり、人間に考える事を禁止したということである。したがって、マルクスは人間が知りたい、考えたい、という人間精神の高尚な欲求を抑え、結果を短絡的に求める人民を作ったのである。
狂信は無知を元に表層的な感情から引き起こされるものである。したがって、教育において重要な点は、バランスのとれた知識を与えることが基本であり、正しい感性の下で客観的な見方を養うことにある。
一方、そういう教育の理想はひじょうに重要であるが、それぞれのやり方によって結果が敏感に変わることも認識する必要がある。
目先の利益で特定の教育にだけ力をいれる偏った政策もあるが、それも極論であって排他的な教育は歪な人間を形成することになる。
教育は歴史的にみて、現象的な様相だけから判断して調整的に方法を変えてきた。つまり、利益が見込める理数系や医療系などを学ぶ人口が減っているということで、それらを促進するような相補型と、今まで強調していた教育政策がうまく行かなかった、もしくは、負の結果をもたらしたことから、その教育カリキュラムを削減するような規制型とがあるが、どちらも表層的な調整であるため包括的に問題解決するには至らない。
それゆえ、いくつかの側面を止揚すると、善導という教育理念が生まれる。具体的に善導とは、知識および学問それ自体に善悪や利益・不利益を規定せず、あらゆる基本知識をバランス良く教え、その知識をどのように使っていけばいいのかを抽象的に理解させる。
レーニンの言葉にもあるように、最も抽象的なものは、最も具体的であるから、抽象的に理解させるということは被教育者に具体的なものを誘発させるようなしかたで導いてゆくことである。
ただし、善導の必要条件として教育方法に徳性が内在していることである。決して学ぶ自由を奪い強制する事ではなく、うまく全体を智慧を用いてコントロールしながら、それでいてやる気を起こさせる一つの教育理念である。
宗教的、哲学的改革は、これからも必要であるが、それらが効果的となるには、バランスのとれた知識を学ばせることと、善導的教育法が基盤となることである。