人が何のために勉強a0001_012418するのか質問されたとき、我々はどのように答えるべきか。「一生懸命、勉強すれば将来のためになる」と答えても、経験が結び付いていなければ理解できる範疇にないのは当然である。「学校を卒業すれば仕事につける選択肢が増える」などのインセンティブ型で誘導すれば、利益換算だけで打
算的になってしまう人間になるか、「本当はそんな理由でない」と内心感じている人は、引きこもったり、二面性を演じて社会や人へ表面的に振る舞う人間に成りかねないだろう。

大人になるにつれてあきらめてしまう人もいる。「世の中こんなもんなんだ」、と。もちろん、「どんなものか」わかっているわけでもない。そういう人間が教える立場になれば自身の価値観を押し付けるだけに終わってしまうだろう。

本来、知恵を探求し習得する喜びは、人間が本能として備えているものである。何かの存在に対して「なぜ」を問い続け、問題を見つけ、それを解決する過程は、まるで冒険そのものである。

また、正しい知識の体得は精神の安定にもつながる。知ることは内在的な強さを生み、教育的訓練の下で、物事の考え方や判断の過程まで吟味する方法論も身に着けることができる。

それらに加えて、人類の精神的成長に直接的、または、間接的に役立つための環境を作っていく応用にもつながっていく。

それでは、「大人」が「青少年・少女」に上の理由で、学習に従事することへ導くことはできるのだろうか。文言そのものに説得力はあるが、社会全体が、それを体現しているかといえば、そうではない。現実に起こっていることは、点数、学校名、学位の種類、などで人々を判断し、分類しているだけである。彼らは、そのような制度や習慣を放置しておきながら、また、自身も同じ判断基準で人を見ながら、口では正論だけを、のたまわるのならば偽善でしかない。

そういう意味も含めて、もっと大人への教育の重要性を考えなければいけないと思われる。また、学校だけで学べるものだけが教育ではなく自己学習も含めて人生において連綿と続いていくものであることであると認識するとともに、真の教育環境を考えなければならない。

人間にとっても社会にとってもバランスがとれた情報ないし知識は時間的にも空間的にも大きくそれ自身の概念を育むことができる。mountain-peak-summit-altitude-top-extreme

一方、極論を以ってして、概念を構築しても数々の内部矛盾を引き起こすこととなる。つまり、極論とは原理原則を考慮しない体系であるうえに、事象を簡略化しすぎるところにある。

極論は、宗教の本質的性格と哲学的思考によって改良されることが多い。宗教的な提言は本来、現象の多面性を説くものである。正義の一方的な押し付けは宗教性に属していない。逆に、宗教の表層的側面が極論にまみれるようであれば、宗教改革によってバランスが保たれるように働く。

例えば、マルチン・ルターは、当時の教会が免罪符さえ購入すれば、さまざまな苦罰から解放される、といった極端な理論を批判し、本来、バランスのとれた宗教の在り方を説いた。また、親鸞は当時の仏教が完全に出世のための道具としてしか使われていないこと、しかも、僧侶のためだけの学問としてしか使われない極論を、民衆に仏教をわかりやすく説くことによって本来の宗教のバランスを保った。

哲学的思考は特に人間の倫理と社会の倫理とのバランスをとって来た。また、論理的な考えや思考方法を議論することによって科学の方向性の調整の役割も担ってきた。

もう少し具体的に極端的思想を分析してみる。マルクスの社会主義的論理は、結果的に、極端思想としておおくの人民の狂信・盲信を助長してきたと考えられて来た。その狂信ぶりは凄まじかったとされる。その後、原典の理論の修正が求められ、ベルンシュタインがその極論的マルクス主義を修正したのにもかかわらず、全くといっていいほど受け入れられなかった。ベルンシュタインの理論は基本的にバランスのとれたものであり、その内容は、プロレタリアート独裁による武力改革の方法ではなく、知性や道徳の向上を含めて、着実に社会を改良していく、議会主義に根差した理論をもって、マルクス主義を批判し修正を試みたのにである。

マルクス主義の目的は不当なまでの労働者の貧困化を防ごうとしたことである。しかし、人間の機械化と盲信的唯物論から導かれる必然性、つまり、彼の思想が原理原則に従っていなかったため、早くから崩壊の兆しがみえたのも事実であった。

ベルンシュタインはマルクス主義を完全に否定せずに弁証法的に修正社会主義を提唱したにもかかわらず、マルクス主義狂信者によってその受け入れを拒否された。この様相は思考的バランスを哲学的に調整するというよりも、宗教的な側面における極論、つまり、狂信・妄信に抗う宗教改革的な動きが必要だったのかもしれない。

結局、社会主義思想に関して言えば、相当の深傷を負うまで人民の生活を困窮化させていたということである。

なぜそこまで追い込むとともに追い込まれることを甘受したのか。いくつか原因が考えられるが、マルクスは人民の嫉妬心や悪しき平等主義を表向きに正当化したことにある。つまり、マルクスの言動は簡略化した目的を主張することにより人民に受け入れやすくしてしまったのである。

抽象性を排除したことも狂信者を増やした原因である。つまり、人間に考える事を禁止したということである。したがって、マルクスは人間が知りたい、考えたい、という人間精神の高尚な欲求を抑え、結果を短絡的に求める人民を作ったのである。

狂信は無知を元に表層的な感情から引き起こされるものである。したがって、教育において重要な点は、バランスのとれた知識を与えることが基本であり、正しい感性の下で客観的な見方を養うことにある。

一方、そういう教育の理想はひじょうに重要であるが、それぞれのやり方によって結果が敏感に変わることも認識する必要がある。

目先の利益で特定の教育にだけ力をいれる偏った政策もあるが、それも極論であって排他的な教育は歪な人間を形成することになる。

教育は歴史的にみて、現象的な様相だけから判断して調整的に方法を変えてきた。つまり、利益が見込める理数系や医療系などを学ぶ人口が減っているということで、それらを促進するような相補型と、今まで強調していた教育政策がうまく行かなかった、もしくは、負の結果をもたらしたことから、その教育カリキュラムを削減するような規制型とがあるが、どちらも表層的な調整であるため包括的に問題解決するには至らない。

それゆえ、いくつかの側面を止揚すると、善導という教育理念が生まれる。具体的に善導とは、知識および学問それ自体に善悪や利益・不利益を規定せず、あらゆる基本知識をバランス良く教え、その知識をどのように使っていけばいいのかを抽象的に理解させる。

レーニンの言葉にもあるように、最も抽象的なものは、最も具体的であるから、抽象的に理解させるということは被教育者に具体的なものを誘発させるようなしかたで導いてゆくことである。

ただし、善導の必要条件として教育方法に徳性が内在していることである。決して学ぶ自由を奪い強制する事ではなく、うまく全体を智慧を用いてコントロールしながら、それでいてやる気を起こさせる一つの教育理念である。

宗教的、哲学的改革は、これからも必要であるが、それらが効果的となるには、バランスのとれた知識を学ばせることと、善導的教育法が基盤となることである。

大学以上の高等教books-in-bookshelf-in-library育における本来の役割とはどうあるべきかについて考える。

高等教育の主な役割のひとつとして科学性を強調されるべきかもしれない。なぜならば、大学で触れる主要な部分は未成熟、つまり発展段階にある学問に基づいているところが多いからである。しかしながら、知識の理解をおろそかにするわけではない。成熟した人間が知識を習得するには、それに付随する連携性や包括性が必要になるうえ科学的能力もそのような行為によって磨かれる。

逆に言えば、無秩序な知識に翻弄されれば、高等教育機関としては全く意味のないものとなりうる。したがって、教育する立場の者は、その教育の根幹において未知の問題をいかに処理するかを念頭に入れ、学ぶものが理解にたどり着くように指導できなければならない。

科学を専門にする人としない人とに対する教育は出発点が違って来る。しかし、その両方は相反するものではなく最終的に相互理解ができることに至らなければいけない。

専門家は多くの場合、その専門分野以外の人たちを差別し、自身の専門をもって観念的な遊戯だけに走る。もちろん、そのこと自体悪くはないが、無批判的もしくは無評価的に進めば、そのコミュニティは腐敗しやすく自己満足的もしくは排他的になりやすい。

一方、科学を専門的に携わらない人達は、科学に無知、不理解であることを得意にする傾向があり、とかく科学または科学者を理解しようとしない。互いに互いのやっていることに干渉すべきではないという迷信に近い暗黙の了解が続けられている。文学や芸術の本質には科学本来の目的である人間の認識力の拡大と社会的機能の高度化を実現する潜在能力がある。

その問題点を解決するには、まず科学は人間の心と反するものではなく自然との間で色々な相互作用があることを理解すべきである。疑問をもったり、ものごとを機能化したり道具化、定式化、定量化したりすることは、すでに多くの人が生活または仕事で行っていることで科学や工学に通じている。

さらに、それらをより広い範囲で一般化するには深い洞察と広範な専門知識が必要となってくる。より整ったしかも精密な理論や知識は、多くの結果を導いたり発明などを促すことになる。それらをさらに追求し、多くの努力の結果が新たな専門分野を産み出すのにも貢献する。

このようにして科学と芸術の相互理解が深まれば、科学もしくは科学者への評価や批判も良い意味で進み、専門家がその専門分野以上に教養を広げこともできるはずである。

批判は批判のための批判であるべきではなく、より良いものを導出する方法論であるべきであることはいうまでもない。

もう一つ、教育、研究の世界において、バナール(イギリスの物理学者)のようにひじょうに認識が広く、社会や科学について広範にわたって言及できる人材、また、ダイソン(イギリスの数学者で物理学に多くの貢献をした)のようにたくさんのアイデアを持ちそれらを自由自在に扱えるような人材をもっと社会的、歴史的に評価すべきであり、高等教育はそれを促進する側面もあるべきである。

彼らのような人物は多くの有用な研究を誘発し、社会、人間と科学の関係を潤滑せしめる能力がある。専門的な貢献とは違って、全体的で一般的な概念を変えるような貢献である上、長期的で教育的な貢献にも寄与できるところを評価すべきである。

政治houses_of_parliament_in_london_192637の本質は社会という枠組みの中で市民の精神的流動性を維持するところにある。根本的な意味で民主主義的政治と徳治もしくは哲人政治の本質が持つ意義を探求してみる。

民主主義は市民が政治権力を所有するとともにそれを行使するという初期条件に基づく。また、市民一人一人の自由と平等性を保証するための境界条件もある。

一方、政治の操作的な役割としては、市民と社会のバランスをとりながら短期的かつ長期的なコミュニティーの価値と徳義を最適化し超法規的に実行することである。市民に対する仁徳心が原動力になるのは、ある意味合理的でもある。

逆に市民一人一人からの側面から言えば、カントのいうように、”人間は本能・欲望のままに生きる動物ではなく実践理性(良心)により、自分で自分を律する自由を持った理性的存在者(人格)”であり、そうであることを欲する性質も持ち合わせている。したがって、市民一人一人の良心に訴えかけるかたちの民主主義政治がより本質に近いところにあると思われる。

人間の純粋な欲求の一つとして賞賛をもとめるものがある。これは、名誉欲というよりは、承認欲求的なもので理性的な欲求である。換言すると人間の善なる本性の自己確認である。

民主主義社会は市民の善良性を理性的に抽出することも政治家の経営能力のうちの一つである。その操作は理性的行うことがひじょうに重要であり、哲学的な評価を積極的におこなうのであって、物質的な欲求を満たすためだけに利用することとは全く違う。

スピノザの言葉を借りれば、この自然状態が神の現れならば、人間とその集合である市民のあり方も神の体現であり、その本質である真・善・美に基づくものである

したがって、政治もその実相において真・善・美を備えたものであるべきなのは自明である。しかしながら人々の多くは利己心や表面的な現象にとらわれ、限られた情報に惑わされている。そこで民主主義の問題点としての衆愚政治への懸念が考えられる。

そういう市民の堕落化は不特定多数の集団に影響される場合に顕著である。本来、人間の精神は本質的なものを求めるものであるが、純真無垢の状態では物事の本質を具象化する段階で多くの困難に対面する。そのため、何かに頼ってしまったり現象に翻弄されるのである。

もちろん知性によって本質を見出せば、困難を乗り越えることができるのだが、知識を吟味し解決に導くまでの方法論を貫徹できる者も少ない。それゆえ、あきらめの感覚に陥りやすくなる。社会における人間の堕落の原因は安易なものに頼ることの大衆化、すなわち、他人の怠惰から自己の怠惰の正当化が始まるところにある。

人間知による善悪の判断は容易につけられないが、先導的立場の人間の行動は良きにつけ悪しきにつけ大きな影響力を与える。

混沌とした状態では、政治力だけでなく教育などの影響も考えなくてはならないが、政治だけの領域に限れば上記でも議論している哲人政治の理念も理解しなければならない。

孔子は極端な法治主義による人間性の無視に対抗した。それが徳治主義であって、人徳によって人民を感化し為政者が率先して礼を示し秩序を体現する政治である。

しかし、その本質はもっと一般化されるものであり、法治も徳治も政治的実相に包含されなければいけない。つまり、徳治は社会観念のイデアを認識し法治は社会状況を理解するための教育とそれを運営するにあたっての境界の設置で相補的に成り立つのである。

政治のリーダーシップをとる者の気質で重要なのは内発的な動機の所有、問題の発見能力とそれを解決する能力、持続させる根気、説明する能力、矛盾をアイデアをもって解消する能力、他の人を鼓舞できる能力、善悪を哲学的に把握する能力、科学的な見方や処理をする能力、質問する能力、意見を集約する能力、意見を言わせる能力、アイデアを広げる能力などである。

結論として、民主主義、哲人政治、法治主義、徳治主義は市民の理性的な政治心において相矛盾するものではないということだ。

合理論の本質における現代的意義を考える。a0050_000368

合理論の定義として言われているのは、理性によってとらえられた論理的かつ理論的なものを真理とするものである。これをもっと一般的に定義してみると、合理論とは、絶対理性によって認識される一つの法則であり、それは超時間的・超空間的に最終実証されるものと言える。

最初の定義と違うのは、人間理性に固執しているかどうかであって、もし、人間理性によって世界の道理を限定的に認識すれば必ずどこかで破綻する。

禅の世界では言葉を使わない、もしくは、真理を言語的表現以外にもとめる性質がある。したがって、西洋的な見地からすると、その結果に非合理性や恣意性を感じる。

しかしながら、一般的な合理論の定義によると本当に非合理的なものは、超自然性のもとに正しい存在形態でいられない。つまり、合理論のより包括的な解釈をこころみるため禅的考え方の表面的な非合理性を絶対理性から吟味しなければならない。

結論から言えば、禅の直感性は実在における弁証法の、本質的ではあるが無時空的運動の帰結である。その点からみれば、これは純粋理性のもとで合理的な行為であり、絶対理性内の集合要素である。

では、西洋的合理性との違いはなにか。それは理知的ツールが現象方面に働いているのか、実在方面に働いているかの違いである。西洋的合理論のほとんどが現象面に基づいた論理であり、そのなかで観念的なものが実在との懸け橋となっている。禅は逆に現象面に論理が表層化せず、むしろ現象間の水平的な思考から問題への実在における総合的判断を行い、これを良く直観と呼ぶ。

合理性を次のように定義できる。まず、論理による現象世界における帰納と演繹から認識され、陰に実在との関わりがあるもの。それに加えて、直感と総合によって、理知的枠組みが把握されるものもある。西洋的と東洋的合理性の対立とも見られる。

ところで、実在の性質は西田幾多郎のいう主観と客観が同水準で認識されるのが本質であるが、すべてが絶対理性の現れであり、絶対精神のもとに非合理的なるものはない。

もし、あるとすれば、それは人為的な操作によるもので、限定的な時空間において相対的なものでしかない。

人間は、どこまでいっても絶対的なものを探求するものであって、その立場から人間は人間を絶対的に裁くことはできない。したがって、理性的なものとそうでないものを決定的に判断することは人間知からは非常に難しい。

超自然性の属性である絶対理性のもとに理性的でないものは理論的に閉じた形で存在できない。ただ、人間の見地からすれば、その絶対理性そのものを理解するかしないかのいずれかで、理解すれば、時空間を越えた理性を体現できる。しかし、そうでなければ、時間および空間において限られた、局在した準理性的なものしか体現できない。

人間の肉a0002_000064体としての認識力には限界があり、その限界を破るには、その一つの方法論として方法的懐疑がある。この方法論の真説とは次のようになる。

1、人間の認識している事柄は、絶対知性的であるか。

2、人間の認識している事柄は、絶対理性的であるか。

3、しかしながら、人間の認識している事柄は、絶対知性的でもなければ、絶対理性的でもない。

4、それでも、絶対性を認識しようとしている人間は厳然と存在していた。

これが、人間の抽象的自我は信仰から始まっていることを知らしめる。具体的にいうと、なにかしらの本質を認識する原動力は、まず信じることからはじまり、絶対性を認識しようとすればするほどその深遠さに気付き、その絶対性への認識が深まれば現象世界を認知することができる。すなわち相対的な自他の区別はなくなる。

ここにおける方法的懐疑は哲学的思惟から宗教的意識に昇華する過程を示す。

そこで、科学的思惟の役割は何かというと、知性を探求し理性で統合する方法の提供である。しかし、この方法の現象的集合には絶対性は付与されず、その感性のもとに絶対であり続ける。

すなわち飽くなき絶対知性への探求と、絶対的整合性への追求が科学的思惟の本質であり、哲学的、宗教的思惟と相補的に存立する。

智慧を愛するとはなにか。その真なるものは何かを考える。a0960_007048

ソクラテス‐プラトンが提唱し実践したエロース、つまり魂のイデアへの憧れは絶対知性と絶対理性を統合する神性を無条件的かつ積極的に求める愛である。これは、奪取することや交換が不可能であり自己中心的に働くものでもない根源的に発生するものである。本質的な価値を見出し、それを認める比較不可能で非分離的な愛である。

広い意味でイデアへの求心、特殊な状況では対象はあらゆるものになりうる。人間同士や科学的知性にも適用できる愛である。

一方、愛情(アガペー)は平等性を体現するが、エロースは価値が表面的に無いようなものに対しても価値を見出す愛(感性)である。これの人間的属性が創造力、勤勉さ、もしくは探求心という意識に反映する。

根源性と平等性を併せ持つアガペーはイエス・キリストによって体現された。神が惜しみなく与える愛の下で人間的な価値は近似的にゼロに近づく。無限的に存在し現象的な相対性はない。つまり人為性や現象性からは意味の衝動を発さないものである。

ソクラテス‐プラトンのエロースを哲学的な愛、イエスのアガペーを宗教的な愛としているが、もっと統一的な立場から愛知を考えると次のように解される。それは人間として内観を通じて超自然体の絶対的で偉大な叡智を感じ、人間的な価値にとらわれた現象論的相対性世界の下での矛盾に悩まされていたことに気づくことになる。その反省が無知の知を悟らせる。超自然的な存在は既にその無知である人間を包括しているが、人間のレベルでは証明不可能である。唯一、それを直観する瞬間は、さらなる叡智の深遠さを感じる時である。

無知である人間にできることは、魂もしくは精神のイデアを認識することと無償の追求行為しかない。したがって学問のイデアも絶対者、包括者である神の属性の一部でしかない。

仏陀は超自然体の叡智を求め、それに触れ無限の知愛を感じた一人である。つまり愛知の神髄は人間に属している神的な部分の本性がその自然状態において真理をもとめ、その段階において常に絶対者の知愛を感じられることにある。

愛を求めるのではなく感性によって受け取るのである。叡智へ接触することと愛知は同義であり、また段階の進展における善なる感情によって知の創造(愛知)が体現される。

この意味で解釈すると、仏陀は叡智に触れることを中心に人々を感化し、イエスは愛の体現化によって大いなる叡智を感化したと考えられる。

無論イエスは叡智に接触していたからこそアガペーを体現したという言い方もできる。

ソクラテスもまた存在的愛を享受した者である。つまり叡智との接触は魂を磨くことと同じであるというように愛と知は一つであるという愛知合一をその本質において説いている。

愛は知であり、知は愛である。愛は客観的実存であるといえ、知性には愛という属性が宿っているのが本来であるといえる。

イエス、仏陀をはじめとする多くの者達はその愛知合一を悟り、また行っていたのである。

王陽明の提唱した知a0960_004382行合一は、知性と行為が不可分であって互いに相補的であるというものである。つまり、知恵と実践が一つになって

はじめてその実相が成立する。

私欲によって理性を司る心が曇らされていれば、知識と行いはひとつにならない。

学問することとは良知を成し遂げようとする永続的な努力にほかならない。正に学問とはその行為を養うものであり、その実相に内在する。

知行合一は実在性および現象性からみることもできる。実在においては時間的または空間的概念が現象の世界と違って空間的に区別化され非同期時間的に定量化できない。

そのため、実在的観点では知が行いであり行うことが知なのである。時間的かつ空間的な隔たりがないために「物理的」に知行合一なのである。

しかしながら、現象的な時空間においては、その知識の発生が相対的であり、その知性の本質を追求する段階を追わねばならない。これは物質の確定を非同期時間の下で定量化することによって行うからである。

行為はその知識を現象世界において実証するという相補的な役割となっていることがここで見ることができる。

また、別な表現をすると、実在もしくは実相において知性が実体的で有体性があるということだ。したがって現象空間における行為は絶対知または本質知を求めるための方法論としてとらえられる。

逆にいうと、知性と行為の現象的分離が絶対性へ昇華する運動を促進させると考えられる。

質の純粋領域である本質は不変性を保持しているものである。質の質たる所以は、それに付随する量的な群を代表し、かつ制御可能なものであるからだ。a0002_006313

一方、量は科学的あるいは数学的に定式化または定量化されるものである。そのため原則として量自体は質と比べることも制御することもできない。

質は定量化された要素の群を制御しているものであって、それを構成している量の大小や変化には依存しない。つまり質は非局所的にまたは包括的に、その量の要素と関係しており、質は量の在り方によって限定されないのである。

質・量の関係において本質は抽象的であるが一定である。それぞれの質は内在する自由度によって質自体が差別化される。自由度は認識される次元によって体現されるが現象的に定量はできない。もし量が質に変わるとすれば、これは量要素の群の中で超越的な認識によって新しい次元を具現化することである。

質は、その実在であり、量はその現象であるといえる。人間の主観的作業と客観的結果も質・量の関係で説明できる。ソクラテス、ピュタゴラス、イエス、仏陀らは自らの精神が創出した現象として残っている量を代表する質なのである。また彼らそれぞれの量は現象的な表現として違ってはいるが、彼らが去って何千年経ったいまでもその「本質」において大きな影響を与え普遍的に存在している部分が重要とみなされる。つまり(本)質は歴史的精神(超時間的認識)によって認知もしくは証明され、量は現象的時間のもとで定量化されるものである。質に内在する不可分性は時間を超えた実在でしか見えてこない。

したがって本質は現象化された時間によっては限定されない。例えば、一見大きく支持されているような思想または理論(逆に全く支持されていないもの)も量だけに囚われていれば現象化された時間内では本質が見えてこない。しかし、歴史的精神においては、その本質は明らかになる。

また、歴史的精神は本質の不可分性も体現する。つまり、主観と客観の統一的な評価という面で重要な役割も担っている。具体的に言えば、歴史的精神は客観的な質の高次元性とそれにかかわった人間主観の質を不可分的にかつ超同時的に評価するのである。

a1180_013915基礎的な教育を考えるとき、知識(知性)の習得と考え方(理性)の習得の二元論から始まる。どちらも大切であるが、教育の場では性質が全く違って来る。

本来、哲学的な体系では、知性と理性はその根源または、絶対的な始点では区別され得ない。しかしながら、教育という枠組みのなかでは、しばしば対立し、互いに排他するとみなされている。確かに、一方の習得に力を注ぐ事がその概念においてもう一方を排除していることは多くの経験上否定できない。そこで、その二つの対立を感性によって止揚してみる。

人間には、知性的な欲求と理性的な欲求が本来備わっている。それらは人によって段階の違いはあるが、知りたいと思う心や、何故だとか、どうにかしたいと思う心は、ある程度良い精神状態の人間ならば誰でも持つはずである。

自由な状態では知性と理性はうまく統合されて働いている。では何故教育において、それらは相反するのだろうか。それは教育者ないし被教育者がなんらかの観念に束縛されているからである。

では、大学に入る前の教育では自由で非厳格てきなものを強調し、大学教育では自由でありながら自主性を強調する方法はどうであろうか。確かにその教育は多くの天才や秀才を輩出してきたが、また多くの落伍者を生んだのも事実である。

そこで、知性と理性の対立と感性によるそれらの止揚という経路をたどる教育が考えられる。知性という面では性格な知識を把握するという手続きを得、理性という面で論理的、分析的、統合的な方法論を得る。感性という面で観賞、同化、審美性を内から見出す。

しかし大学前の初等的教育では、どれか一つを習得するにも中途半端になりやすく被教育者側の混乱をまぬがれない。

しかも、考える力を養う教育は極端に走れば、歪曲された思想に導かれる可能性もある。逆に教育材料に含む知識が希薄ならば理性というものを効果的に教える事は難しくなるだろう。

理性は飽くまでも自由性と自発性から来るものであるため、それらを醸成できる環境がなければ理性をはぐくむのは難しい。

一方、知識教育も目的が試験のためだけなど、強制的なものならば、勉学に対して苦痛がともない、嫌悪を助長させることになり、多くの場合、一生にわたって勉学に対する恐怖症を植え付ける場合もある。もしくは、目先の利益を追求するだけになり勉学の持っている、本来の知性を獲得するという態度から逸脱する可能性も出てくる。

この改善となる一般的なアイデアの提示として、まず、知識の正確な把握は必要であるということを教えるべきである。特に母国語や算術を習得するにおいては重要である。

ただし、一方で正確であることを罰で身に着けるのではなく、そこに至るような自主的でかつ客観的なプロセスを確保しなければいけない。

考える力を養うには、頭ごなしに意見を否定しないことである。ただし、論理的であるかどうかの確認と実行可能であるか、また、反証可能であるかというプロセスの質疑を行うようにするのは重要である。

そして、感性、つまり勉学に対する喜びを養う事が、知識と考える力を統合できるのである。

その感性についてであるが、感性を養うために一番良いと考えられるのが哲学、倫理、道徳、宗教である。なぜならば、それらは、学ぶ事に対して勇気をあたえるからで、本来は洗脳するものではないからである。

ただし、哲学、倫理、宗教そのものを教えることは、高等教育になるため、幼少期の学習として伝記を読むことは良い影響を与えるだろう。

天才を育て受け入れる事は重要であるが哲学性、倫理性、宗教性のない天才は狂気にもなりうる。本当の天才は、その精神において実に素朴なひとである。