6月 29
人間の肉体としての認識力には限界があり、その限界を破るには、その一つの方法論として方法的懐疑がある。この方法論の真説とは次のようになる。
1、人間の認識している事柄は、絶対知性的であるか。
2、人間の認識している事柄は、絶対理性的であるか。
3、しかしながら、人間の認識している事柄は、絶対知性的でもなければ、絶対理性的でもない。
4、それでも、絶対性を認識しようとしている人間は厳然と存在していた。
これが、人間の抽象的自我は信仰から始まっていることを知らしめる。具体的にいうと、なにかしらの本質を認識する原動力は、まず信じることからはじまり、絶対性を認識しようとすればするほどその深遠さに気付き、その絶対性への認識が深まれば現象世界を認知することができる。すなわち相対的な自他の区別はなくなる。
ここにおける方法的懐疑は哲学的思惟から宗教的意識に昇華する過程を示す。
そこで、科学的思惟の役割は何かというと、知性を探求し理性で統合する方法の提供である。しかし、この方法の現象的集合には絶対性は付与されず、その感性のもとに絶対であり続ける。
すなわち飽くなき絶対知性への探求と、絶対的整合性への追求が科学的思惟の本質であり、哲学的、宗教的思惟と相補的に存立する。