歴史によれば、イエスや仏陀のような人物が新たな教えを創始したときからそれなりの長い期間は、真理をつかさどる抽象的なものを目指して追い求めることを当然のように人々が行う。
教育が充実し、哲学や思想などによって、その基礎が固められ、文明、文化、芸術が発展する。
個と公共を結び付ける役割の政治が成功すれば、経済も栄え社会への貢献も充実し科学やエンジニアリングも発展する。
このような、文明建設の時代が落ち着くと安定の時代が来る。人々はこの発展や平和を維持するため勤勉に働くが平和ゆえに段々と利己的な態度をとる一方、多様な在り方を奨励するようになる。
ここで方向性バランスが崩れると経済が偏り、価値観を相対主義的にとらえるような人が多くなっていく。
また、現象にとらわれる人々が多くなり、神や肩書は権威の道具と化す。かつて、創設された宗教的または哲学的繁栄がほぼ形骸化すると、また逆向きの作用、すなわち革命が起こる。ここで革命の役割は前の時代の宗教や哲学、つまり原始の体系を思い出させることと、現在に即した新しい方向付けである。
権威からの開放が哲学や科学を発展させるのは歴史を見れば明らかである。改革された宗教文化のもとで哲学、科学が発展するが、絶対性が形骸化された中では純粋な形で科学が発展できなくなるために宗教と科学、哲学がそれぞれ独立した学問として分離化がすすむ。
それぞれが高度に専門化するとともに、現象の細部に固執していく。
西洋の歴史を鑑みると、文明の栄枯盛衰は、このように一般化される。つまり、時間がたつにつれて、宗教、哲学、科学の本質的意義が低下するということ、平和な時期には学問の多くが発展するが人々の利己的な態度にともなって物質主本的になっていくことの二つに集約される。歴史では、最終的に宗教と科学が分離するが、いずれにせよ、時間が経てば多くの価値が形骸化するのはまちがいなかっただろう。
これまでの歴史を振り返ってみると、見えないものを信じることが正しいか、それとも目に見えるものだけ信じることが正しいか、という二者択一的な問は意味をなさないのが明らかだろう。
目に見えないものを信じる心が文明の物質的な面に大きく貢献する原動力となって来たのは多くの人が認めることであり、またその心が権威や物質に直接結び付くことによっておおくの望まぬ現象を誘発するのも認められる。
ここで言う、「目に見えないものを信じる」とは、未知のものに対する畏敬の念を持つことであり、理論の背後にある確定できない根底を思慮することである。一方、「目に見えるものを信じる」とは、浅はかな思慮から来る、その場しのぎのつじつま合わせと、人間的観念から世界を狭める行為である。
見えるものだけを信じる行為は、平和的利己主義から生まれるものであり、その末路は思想の無政府状態である。
しかし、科学的現象と理論の背後にある本質的観念は相反するものではなく、「目に見えないもの」と「目に見えるもの」に対応はしない。
一見、二元的に見えるものは、それぞれの要素を純粋化しプロティノス的およびプラトン的一元論として統一的に見ることができる。
プロティノス的な一元論は万物は一つのものから流出したものであり、プラトン的一元論は、それぞれの物質はイデアへ昇華していくという運動で、二つのものは互いに相補的に一つに表される。プロティノス的運動論は根源的な世界の創造を表現し、プラトン的運動論は世界の成長を表現している。