金の斧というおとぎ話で、正直なきこりが正直に落とした斧を神に申告したことから、高価な斧までもらえる。一方、怠惰な木こりが、前の木こりの話の一部始終から「正直に」貪欲さを表現したことによって、すべてを失うというのは有名な話である。
もし、ある木こりが神の意図を知った上で、あえて神に受け入れらるような形で「正直」に振舞った場合は、神を内心で欺くことになるだろう。つまり、木こりが本当に正直かどうかを判断する材料は、どこにあるのだろうか。別な言い方をすれば、人間の表現する本当の正直さをアルゴリズムなどの客観的指標で判断することが可能なのだろうか。
これは決しておとぎ話の世界だけではなく、日常で起こっていることでもある。例えば、学校における先生の生徒に対する評価でも似たようなことは起こり得る。この教授はこうするとよく評価してくれるから、例え疑問や問題があってもそうふるまうようになる。結局、評価する側も、もともとあった評価基準を変えなければ、評価した結果が全く逆の効果を示すこともある。また、会社や学校などで行われる面接やテストも同じである。
加えて、ルールや法律も社会では同じような矛盾に突き当たる。上記のようなことを防ぐことが難しいことは経験からも明らかだ。もし、一つの不都合を完璧なまでに防ぐように法律を定めても、市民の良心を行使する自由を縛ったり、人間の真善美を追い求める活動に箍(たが)をかけてしまうことにもなる。
このような状況を制定し、コントロールできるアルゴリズムは、普遍的に設定できないものなのか。人工知能にある深層学習などで理想の方法に近づくことはできるかもしれないが、不確定で形式が未知であるメタなアルゴリズムを永遠に探求しなければならない。哲学的に、かつ、倫理的に高い志を探求するのは人類にとっての宿命なのかもしれない。
話を戻すが、上記の「評価」と「被評価」の間で起こる動的なプロセスからみて、評価するプレーヤーが評価されるプレーヤーの精神や心根を凌駕できていなければ、相互の尊敬による主従関係が、すでに成り立たないということでもある。
教師と生徒、上司と部下、師匠と弟子などの関係も、表層的な正直さだけで成り立っているとすれば、本来、人類が求める切磋琢磨や探求には至っていないのかもしれない。
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