大学以上の高等教books-in-bookshelf-in-library育における本来の役割とはどうあるべきかについて考える。

高等教育の主な役割のひとつとして科学性を強調されるべきかもしれない。なぜならば、大学で触れる主要な部分は未成熟、つまり発展段階にある学問に基づいているところが多いからである。しかしながら、知識の理解をおろそかにするわけではない。成熟した人間が知識を習得するには、それに付随する連携性や包括性が必要になるうえ科学的能力もそのような行為によって磨かれる。

逆に言えば、無秩序な知識に翻弄されれば、高等教育機関としては全く意味のないものとなりうる。したがって、教育する立場の者は、その教育の根幹において未知の問題をいかに処理するかを念頭に入れ、学ぶものが理解にたどり着くように指導できなければならない。

科学を専門にする人としない人とに対する教育は出発点が違って来る。しかし、その両方は相反するものではなく最終的に相互理解ができることに至らなければいけない。

専門家は多くの場合、その専門分野以外の人たちを差別し、自身の専門をもって観念的な遊戯だけに走る。もちろん、そのこと自体悪くはないが、無批判的もしくは無評価的に進めば、そのコミュニティは腐敗しやすく自己満足的もしくは排他的になりやすい。

一方、科学を専門的に携わらない人達は、科学に無知、不理解であることを得意にする傾向があり、とかく科学または科学者を理解しようとしない。互いに互いのやっていることに干渉すべきではないという迷信に近い暗黙の了解が続けられている。文学や芸術の本質には科学本来の目的である人間の認識力の拡大と社会的機能の高度化を実現する潜在能力がある。

その問題点を解決するには、まず科学は人間の心と反するものではなく自然との間で色々な相互作用があることを理解すべきである。疑問をもったり、ものごとを機能化したり道具化、定式化、定量化したりすることは、すでに多くの人が生活または仕事で行っていることで科学や工学に通じている。

さらに、それらをより広い範囲で一般化するには深い洞察と広範な専門知識が必要となってくる。より整ったしかも精密な理論や知識は、多くの結果を導いたり発明などを促すことになる。それらをさらに追求し、多くの努力の結果が新たな専門分野を産み出すのにも貢献する。

このようにして科学と芸術の相互理解が深まれば、科学もしくは科学者への評価や批判も良い意味で進み、専門家がその専門分野以上に教養を広げこともできるはずである。

批判は批判のための批判であるべきではなく、より良いものを導出する方法論であるべきであることはいうまでもない。

もう一つ、教育、研究の世界において、バナール(イギリスの物理学者)のようにひじょうに認識が広く、社会や科学について広範にわたって言及できる人材、また、ダイソン(イギリスの数学者で物理学に多くの貢献をした)のようにたくさんのアイデアを持ちそれらを自由自在に扱えるような人材をもっと社会的、歴史的に評価すべきであり、高等教育はそれを促進する側面もあるべきである。

彼らのような人物は多くの有用な研究を誘発し、社会、人間と科学の関係を潤滑せしめる能力がある。専門的な貢献とは違って、全体的で一般的な概念を変えるような貢献である上、長期的で教育的な貢献にも寄与できるところを評価すべきである。

Leave a Reply