合理論の本質における現代的意義を考える。
合理論の定義として言われているのは、理性によってとらえられた論理的かつ理論的なものを真理とするものである。これをもっと一般的に定義してみると、合理論とは、絶対理性によって認識される一つの法則であり、それは超時間的・超空間的に最終実証されるものと言える。
最初の定義と違うのは、人間理性に固執しているかどうかであって、もし、人間理性によって世界の道理を限定的に認識すれば必ずどこかで破綻する。
禅の世界では言葉を使わない、もしくは、真理を言語的表現以外にもとめる性質がある。したがって、西洋的な見地からすると、その結果に非合理性や恣意性を感じる。
しかしながら、一般的な合理論の定義によると本当に非合理的なものは、超自然性のもとに正しい存在形態でいられない。つまり、合理論のより包括的な解釈をこころみるため禅的考え方の表面的な非合理性を絶対理性から吟味しなければならない。
結論から言えば、禅の直感性は実在における弁証法の、本質的ではあるが無時空的運動の帰結である。その点からみれば、これは純粋理性のもとで合理的な行為であり、絶対理性内の集合要素である。
では、西洋的合理性との違いはなにか。それは理知的ツールが現象方面に働いているのか、実在方面に働いているかの違いである。西洋的合理論のほとんどが現象面に基づいた論理であり、そのなかで観念的なものが実在との懸け橋となっている。禅は逆に現象面に論理が表層化せず、むしろ現象間の水平的な思考から問題への実在における総合的判断を行い、これを良く直観と呼ぶ。
合理性を次のように定義できる。まず、論理による現象世界における帰納と演繹から認識され、陰に実在との関わりがあるもの。それに加えて、直感と総合によって、理知的枠組みが把握されるものもある。西洋的と東洋的合理性の対立とも見られる。
ところで、実在の性質は西田幾多郎のいう主観と客観が同水準で認識されるのが本質であるが、すべてが絶対理性の現れであり、絶対精神のもとに非合理的なるものはない。
もし、あるとすれば、それは人為的な操作によるもので、限定的な時空間において相対的なものでしかない。
人間は、どこまでいっても絶対的なものを探求するものであって、その立場から人間は人間を絶対的に裁くことはできない。したがって、理性的なものとそうでないものを決定的に判断することは人間知からは非常に難しい。
超自然性の属性である絶対理性のもとに理性的でないものは理論的に閉じた形で存在できない。ただ、人間の見地からすれば、その絶対理性そのものを理解するかしないかのいずれかで、理解すれば、時空間を越えた理性を体現できる。しかし、そうでなければ、時間および空間において限られた、局在した準理性的なものしか体現できない。