質の純粋領域である本質は不変性を保持しているものである。質の質たる所以は、それに付随する量的な群を代表し、かつ制御可能なものであるからだ。a0002_006313

一方、量は科学的あるいは数学的に定式化または定量化されるものである。そのため原則として量自体は質と比べることも制御することもできない。

質は定量化された要素の群を制御しているものであって、それを構成している量の大小や変化には依存しない。つまり質は非局所的にまたは包括的に、その量の要素と関係しており、質は量の在り方によって限定されないのである。

質・量の関係において本質は抽象的であるが一定である。それぞれの質は内在する自由度によって質自体が差別化される。自由度は認識される次元によって体現されるが現象的に定量はできない。もし量が質に変わるとすれば、これは量要素の群の中で超越的な認識によって新しい次元を具現化することである。

質は、その実在であり、量はその現象であるといえる。人間の主観的作業と客観的結果も質・量の関係で説明できる。ソクラテス、ピュタゴラス、イエス、仏陀らは自らの精神が創出した現象として残っている量を代表する質なのである。また彼らそれぞれの量は現象的な表現として違ってはいるが、彼らが去って何千年経ったいまでもその「本質」において大きな影響を与え普遍的に存在している部分が重要とみなされる。つまり(本)質は歴史的精神(超時間的認識)によって認知もしくは証明され、量は現象的時間のもとで定量化されるものである。質に内在する不可分性は時間を超えた実在でしか見えてこない。

したがって本質は現象化された時間によっては限定されない。例えば、一見大きく支持されているような思想または理論(逆に全く支持されていないもの)も量だけに囚われていれば現象化された時間内では本質が見えてこない。しかし、歴史的精神においては、その本質は明らかになる。

また、歴史的精神は本質の不可分性も体現する。つまり、主観と客観の統一的な評価という面で重要な役割も担っている。具体的に言えば、歴史的精神は客観的な質の高次元性とそれにかかわった人間主観の質を不可分的にかつ超同時的に評価するのである。

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