人間を犯cross_182863罪に駆り立てる要因は数多くあるが、心理的に観れば、犯罪傾向をもつ人とそうでない人の知能的、性格的に大きな違いはない、むしろ犯罪傾向のある人達のほうが優秀な知能を持っていることさえある。また、性格的な優劣が犯罪と本質的に相関関係があるとは思えない。もちろん、ある種の性格が特定の犯罪を誘発もしくは促進する可能性はある。また外部要因として、アメリカの精神医学者ヒーリーによると、愛情関係で拒否されている、理解されない。自己表現の願望が妨げられているという深刻な感情。疎外感、自己不適当感劣等感、挫折感。家族内の不調和、葛藤。同胞に対する激しい嫉妬、敵意。抑圧された心的葛藤に基づく不幸感情。幼いころの行動に対する意識的、無意識的な罪責感があり、個人の無秩序的な判断、極端な思想によって犯罪に駆り立てる、という蓋然性が出てくる。

もっと一般的に社会の不調和の原因を探っていくと、思想的な影響も関連していると思える。そのひとつに科学的唯物思想がある。確かに、科学から神を分離したこと(権威主義からの解放)によって、科学的思考が全世界に根付き、物質的な繁栄に大きく貢献して来たが、それと同時に科学万能主義、無神論的唯物思想が流行っていく。無神論とはなにか、また唯物論とはなにか。無神論とは文字通り神を否定する考えである。本来の宗教においては、神を否定するということは、特に西洋においては異端視されることであるが、数学の体系を構築するにあたって公理を設けないことと似ている。他の科学でもその理論的体系において原理や方法を無視しながら結果を求めることはできない。基本的には科学の体系では公理と論理的方法によって議論が進められる。神を外部にだけ存在させると科学においては神を持ち出さなくても論理体系に従えば、結果が導き出せる。しかしながら、すくなくとも無秩序な形では進められない。秩序だった議論と真理発見への方向性に科学における神性の内部存在がみられる。したがって、神を別な表現でいうと、正しき目的意識といえる。また、唯物論的世界観も無神論と同様に全く方向性を否定したところに問題が発端する。

それらの思想がどのように社会を動かすのだろうか。まず、物質がすべてと思い、人間を含む世界が外部の原因による相互作用の結果だけとみる。未来は全くの偶然の結果でしかないとすれば、刹那的に自己を満足することしか考えなくなる。また、悪い原因はすべて外部からくるものとし、責任を転嫁する。法律で規制しようとする考えも自己保存的でしかなく、それを守る人々は法律の網の目をかいくぐろうとしか考えない。人が信じられなくなり、自虐的な性質であれば、精神障害もしくは自殺にまで自分を追い込み、他虐的ならば、傷害、殺人で他者を追い詰める。自分の有利になるような情報しか流さず、どの情報が正しいのか間違っているのか判断できなければ、例えば、人を殺してはいけないという常識さえも疑うようになる。

犯罪の影響を理性的にみると、まず、現象として社会の調和を乱す原因になる。社会において人間もしくは、それにまつわる諸々のエネルギー、つまり、社会の潜在能力は人々の秩序だったエネルギーと無秩序的なエネルギーの差によってきまる。無秩序的なエネルギーは主に犯罪を導くが、それに関連した運動を中心に社会を調整するのが法律である。

倫理的な観点からは、人間そのものの尊重からはじまる。生きる権利の平等を原理的に保証するもので、犯罪はその原理を否定する。逆に否定するものを犯罪としている。個人の権利の確立を主に主張するが、これは、全体の中で個人が犠牲になりやすい傾向が歴史的にあったためで、今は、法律と相補的に秩序を正す役割にある。現象としての法律はそれ自体に価値はなく客観的な指標として存在し、人類の思考の経済化の手段として倫理的価値を補う立場にある。一方、倫理は環境と法律の歴史を吟味することによって、より包摂化しながら具体的な価値観として進化する。

宗教的な立場に身を置けば、自分と他人との区別がなく、犯罪を定式することもない。物質面からは充分な条件として罪を裁定することはできず、人が人を裁くのではなく、自分が自分を裁くのである、否、そうするようになっているのである。自分の罪を自分で認める行為に対して人はその罪を許すしかなく、罪であるかないかは、実在する理性により理解し、現象的には時間がそれを証明する。全体的な考え方をすると、嘘、窃盗、殺人などの悪い行為はかならず悪い結果を導き、逆に善い行為は善い結果を導く。

背後にある宗教性的観点からは、空間的および時間的に一致するものは複数存在するが、現象的世界ではありえない。したがって、犯罪の絶対的または相対的な扱いは、倫理と法律を含め、それらを包括した形で認識されるべきである。

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