
社会現象から生み出された差別性度は、インドのカースト制度や日本の江戸時代における士農工商*などの生まれによる職業の適正から来る差別、また、安価もしくは無料の労働の需要による奴隷または、それに準じた制度も差別を生みやすい。(* 士農工商という身分による区別はなかったとされる説もある)
また、見た目や習慣による人種や民族に対する差別。善悪の判断による価値的な相違による病人や犯罪者に対する感情的で不当な差別などもある。
これらは、自己のアイデンティティー確立のための手段、古典的律法による優劣の創出、善悪二元論による単純な判断基準、無学や未開に対する軽蔑視、誤った選民思想の適用が原因になっている。
人類は歴史的に古い思想や習慣の訂正が行われ、種々の問題の解決を図る。例えば、すべての人間の平等を唱え、学問や仕事の努力によって人間としての評価が与えられる方法である。誰でも行える、客観的な指標によって不当な差別を防ぐというものである。
努力に応じて名誉や地位、金銭を与えることは、権利の平等と結果の公平という面では妥当な考え方である。しかし、これらの提案も時を経るごとに名誉や地位、金銭の結果だけでしか人を評価しなくなり、学歴や収入で人を差別することになる。
また、結果に固執するあまり努力をせずに、結果だけの平等を人々が主張し、悪しき制度設計をも導いている。これによって、新たな差別が引き起こされ、多くの人達が精神的苦痛に悩まされるのである。
権利の平等と結果に対する公平な分配は、社会のシステムとしては最大公約数的であるが人間の心を統制するまでにはいたらない。たとえ、客観的である物差しで平等や公平の価値観を定めようとも、長い時間がたった後は、過去にある似たような問題に収束する。
生まれの違いによって人を差別するのは、無知による誤解であり、学歴や収入で差別するのは、本当の、人間に対する平等や公平の価値をはかる物差しを持ち得ていないことからの差別である。
それに対する禁止事項を設定するだけでは、差別をなくすことはできない。それでは、人間の人格による平等と公平の価値を定めるのが良いのだろうか。
まず、何人に対しても平常心でいられる人。これには、人格的価値を見出せる。一方で、自己を繕ったり、また、相手が自分を騙そうとしているのではと必要以上に疑ったり、相手のあらを探して揚げ足ばかりとったりする人の人格的な価値が高いとは言えない。
しかしながら、相手を信頼し、良い所を見出せる人が人格的価値が高いとすれば、そのように表面的に振る舞うことで誠実性と意義のある結果が伴わなければ、どちらが良いか単純に2元論的に判断はできない。
法律や倫理観にしたがう人。これは、偏見や固定観念をもたず、自然発生的な人類の道徳的な、または、宗教的な法則に従って行動できる人はどうだろうか。これも、心の奥にある誠実性に関しては、誰にとっても評価は難しい。
知識的にバランスがとれ、常識を尊ぶことにも人間の価値を見出せるが、人による恣意性が働くこともある。たとえ、客観的な指標を作り定量化したとしても、しばらくすれば価値が腐敗し、意味のない指標になる。
謙虚である人。謙虚な人は神仏を敬い、父母を敬い、努力に励む。自己欲や自己愛のための極端な贅沢をしない。金や資源の適切な使い方を心得ていて、知識や財産をこつこつと貯めていける人。評価はできるが、程度や目的意識など、多くの条件や哲学にしか支えられない場合も多い。
心の礼儀をわきまえている人。形式にとらわれない、心からの礼儀によって他人に接することができる者で、自己に厳しく、他人には寛容である。これも、定量的には判断が難しい上に、このような抽象的な人格の素晴らしさは、しばしば、超法規的な行動によって新たに現実化されることもある。
善事、悪事に対して適切に対応できる人。中道的立場で善い事には報償し、悪い事には正しくする道を知恵をもって与えてあげられる人。理想であるが、善と悪の定義や判断は、どんな知者であっても常に完璧にはできない。また、他の人に常に正しく伝わるかどうかも難しい。
人を正しく見極め、その人に合った職を薦められる。人を見る眼が養われていて、かつ全体を見る眼も養われている。これには、時代によって移り変わる多くの知識や経験に比例するが、全く、パラダイムが変わることもあり得るため、基準の詳細が伝わりづらいこともある。。
良く働く。他人のために早くから遅くまで働ける人をいう。働くとは必ずしも体が動いている状態とは限らず、思索をもって知恵を産むことや、生産性を上げるための勉強も含む。これも、その質をもって評価が行われるが、判断が難しい。量に帰着すれば、容易に判断できるが、意味のない見方にもなる。
熱意をもっている。熱意を持つ人のまわりには、熱意を持つ仲間が集まるものである。熱意の集まりは、成功への近道となる。しかし、熱意と傲慢は、紙一重でもある。結果が伴いさえすれば良いのか。いや、結果も歴史によって判断されることを待つだろう。
自己保存的な怒りをださない。人はそれぞれ違った意見を持っている。そのことを認識して、自分を高くせず低くせず、相手を高くせず低くせずに対等に話し合えることが重要な人格者の指標である。これも、表層的な振る舞いに終始すれば意味のない指標になり、より良い、質の高い結果を生むものにならないこともある。
災害や予期せぬ事にあらかじめ対策を考えている。全体を考慮でき、科学的手法や事実によって対処できる。しかし、神経質になりすぎれば、この行動に価値を感じる人々は少ないだろう。
他人の才能に嫉妬しない。相手の才能をいち早く見抜け、全体のためにその才能を役立てようとする。しかし一方で、適度な嫉妬は、大きく飛躍する動機づけにもなり得る。
独断せず、ひとの話を良く聞く。また、情報の入手も巧い人。これも、極端に振る舞うことに人格としての価値は見えてこない。
以上が良き人格者の条件となり得る要素であるが、それらは常識的な指標であるが、一方で、これらの文言に囚われて、人格者とは程遠い者もいる。
人間の価値基準は上のような人格者的要素が重要であるが、それをもって人の価値を単純に定量化しないように、多角的に人間の価値を判断できる考え方を育てるべきかもしれない。
安易な定量化に訴えれば、必ず過去の忌まわしき差別が蘇るのである。