かつてソクラテスは「私は知らないことを認識している分、他の知者と比べて世界をよりよく認識している」と言っ

た。

しかし、ただ単に知らないことを認識することがソクラテスの言う知への本当の認識であるかどうか、ここで吟味してみたい。

当然、人間一人が世の中のことをすべて知ることには限界がある。したがって、単に知らないものの量と知性は関係ないことは当然とする。

つまり、知らないことを自身で認められれば、知性が上がるというアルゴリズムではないということだ。これは、正直な木こりがどれだけ正直なのか精査できる方法があるかどうかにも関係するが、表層的な振る舞いによってだけで知性が測られることはない。

もちろん、測定技術が上がって機械学習などのアルゴリズムで、その人が本当に知性があるかどうかの判断は暫定的にできるだろうが、絶対的な基準として方法論が収束するとは思えない。

人間が、もしくは、機械が正確に知性を測定することは、時間との不確定性関係の間に成り立つものである。つまり、短い時間で判断する場合は、その人の知性の測定に大きな誤差が生じる。一方で長い時間をかけて観察すれば、より正確な知性を判断できる。

しかし、より正確な知性を測定するのにどれくらいの時間が必要かに関してはわからない。

一方で、「無知の知」とは、何を知らないか、どれほど知らないか、なぜ知らないか、を知ることだともいう。確かに現在持っている「知識」を客観化するのには正当な手法であると思える。

しかしながら、自然科学の研究において、知らないこと自体を同定することが困難なこともある。したがって、当然なぜ知らないかも、どれだけ知らないかも、状況によっては知りえないのである。

科学史的に見ても、知識として結びつくのが突然の発見やアイデアであったりすることも多い。

ソクラテスの言う「無知の知」とは、本来、知らないことすら完全に客観化できないことを受け入れることを前提に、永遠の時間をかけてその知性に近づいていくことなのではないかと思われる。

社会現象から生み出された差別性度は、インドのカースト制度や日本の江戸時代における士農工商*などの生まれによる職業の適正から来る差別、また、安価もしくは無料の労働の需要による奴隷または、それに準じた制度も差別を生みやすい。(* 士農工商という身分による区別はなかったとされる説もある)

また、見た目や習慣による人種や民族に対する差別。善悪の判断による価値的な相違による病人や犯罪者に対する感情的で不当な差別などもある。

これらは、自己のアイデンティティー確立のための手段、古典的律法による優劣の創出、善悪二元論による単純な判断基準、無学や未開に対する軽蔑視、誤った選民思想の適用が原因になっている。

人類は歴史的に古い思想や習慣の訂正が行われ、種々の問題の解決を図る。例えば、すべての人間の平等を唱え、学問や仕事の努力によって人間としての評価が与えられる方法である。誰でも行える、客観的な指標によって不当な差別を防ぐというものである。

努力に応じて名誉や地位、金銭を与えることは、権利の平等と結果の公平という面では妥当な考え方である。しかし、これらの提案も時を経るごとに名誉や地位、金銭の結果だけでしか人を評価しなくなり、学歴や収入で人を差別することになる。

また、結果に固執するあまり努力をせずに、結果だけの平等を人々が主張し、悪しき制度設計をも導いている。これによって、新たな差別が引き起こされ、多くの人達が精神的苦痛に悩まされるのである。

権利の平等と結果に対する公平な分配は、社会のシステムとしては最大公約数的であるが人間の心を統制するまでにはいたらない。たとえ、客観的である物差しで平等や公平の価値観を定めようとも、長い時間がたった後は、過去にある似たような問題に収束する。

生まれの違いによって人を差別するのは、無知による誤解であり、学歴や収入で差別するのは、本当の、人間に対する平等や公平の価値をはかる物差しを持ち得ていないことからの差別である。

それに対する禁止事項を設定するだけでは、差別をなくすことはできない。それでは、人間の人格による平等と公平の価値を定めるのが良いのだろうか。

まず、何人に対しても平常心でいられる人。これには、人格的価値を見出せる。一方で、自己を繕ったり、また、相手が自分を騙そうとしているのではと必要以上に疑ったり、相手のあらを探して揚げ足ばかりとったりする人の人格的な価値が高いとは言えない。

しかしながら、相手を信頼し、良い所を見出せる人が人格的価値が高いとすれば、そのように表面的に振る舞うことで誠実性と意義のある結果が伴わなければ、どちらが良いか単純に2元論的に判断はできない。

法律や倫理観にしたがう人。これは、偏見や固定観念をもたず、自然発生的な人類の道徳的な、または、宗教的な法則に従って行動できる人はどうだろうか。これも、心の奥にある誠実性に関しては、誰にとっても評価は難しい。

知識的にバランスがとれ、常識を尊ぶことにも人間の価値を見出せるが、人による恣意性が働くこともある。たとえ、客観的な指標を作り定量化したとしても、しばらくすれば価値が腐敗し、意味のない指標になる。

謙虚である人。謙虚な人は神仏を敬い、父母を敬い、努力に励む。自己欲や自己愛のための極端な贅沢をしない。金や資源の適切な使い方を心得ていて、知識や財産をこつこつと貯めていける人。評価はできるが、程度や目的意識など、多くの条件や哲学にしか支えられない場合も多い。

心の礼儀をわきまえている人。形式にとらわれない、心からの礼儀によって他人に接することができる者で、自己に厳しく、他人には寛容である。これも、定量的には判断が難しい上に、このような抽象的な人格の素晴らしさは、しばしば、超法規的な行動によって新たに現実化されることもある。

善事、悪事に対して適切に対応できる人。中道的立場で善い事には報償し、悪い事には正しくする道を知恵をもって与えてあげられる人。理想であるが、善と悪の定義や判断は、どんな知者であっても常に完璧にはできない。また、他の人に常に正しく伝わるかどうかも難しい。

人を正しく見極め、その人に合った職を薦められる。人を見る眼が養われていて、かつ全体を見る眼も養われている。これには、時代によって移り変わる多くの知識や経験に比例するが、全く、パラダイムが変わることもあり得るため、基準の詳細が伝わりづらいこともある。。

良く働く。他人のために早くから遅くまで働ける人をいう。働くとは必ずしも体が動いている状態とは限らず、思索をもって知恵を産むことや、生産性を上げるための勉強も含む。これも、その質をもって評価が行われるが、判断が難しい。量に帰着すれば、容易に判断できるが、意味のない見方にもなる。

熱意をもっている。熱意を持つ人のまわりには、熱意を持つ仲間が集まるものである。熱意の集まりは、成功への近道となる。しかし、熱意と傲慢は、紙一重でもある。結果が伴いさえすれば良いのか。いや、結果も歴史によって判断されることを待つだろう。

自己保存的な怒りをださない。人はそれぞれ違った意見を持っている。そのことを認識して、自分を高くせず低くせず、相手を高くせず低くせずに対等に話し合えることが重要な人格者の指標である。これも、表層的な振る舞いに終始すれば意味のない指標になり、より良い、質の高い結果を生むものにならないこともある。

災害や予期せぬ事にあらかじめ対策を考えている。全体を考慮でき、科学的手法や事実によって対処できる。しかし、神経質になりすぎれば、この行動に価値を感じる人々は少ないだろう。

他人の才能に嫉妬しない。相手の才能をいち早く見抜け、全体のためにその才能を役立てようとする。しかし一方で、適度な嫉妬は、大きく飛躍する動機づけにもなり得る。

独断せず、ひとの話を良く聞く。また、情報の入手も巧い人。これも、極端に振る舞うことに人格としての価値は見えてこない。

以上が良き人格者の条件となり得る要素であるが、それらは常識的な指標であるが、一方で、これらの文言に囚われて、人格者とは程遠い者もいる。

人間の価値基準は上のような人格者的要素が重要であるが、それをもって人の価値を単純に定量化しないように、多角的に人間の価値を判断できる考え方を育てるべきかもしれない。

安易な定量化に訴えれば、必ず過去の忌まわしき差別が蘇るのである。

歴史的にみて、科学というのは、人間の積極的な理念において三つに分けられる。第一に科学を実践する人間性である。これは、一人一人の持つ科学理念と経験によって培われるものである。

第二に統合性と整合性である。これは、より一般的な体系を構築するにあたっての観念的な昇華を示す。

第三に可能性への飽くなき挑戦である。これは、表面的には、過去の凝り固まった観念の打破とされるが、人間の科学を通じて行われる健全な態度でもある。

この三つの理念は互いに相補的であり、共同的にも働く。現実には明確な区別をすることはできない。また他にも特殊で細かい内容の理念は存在するであろうが、ここでは上の三つの視点から科学的理念の在り方を吟味する。

人間性を重視する科学とは、例えば物理学において、その感性と動機を主体的に考える場合で、それを通じて実験や理論などに対し、発想のセンスを経験を積み重ねながら培っていく視点である。

いわゆる職人肌的で、ひじょうに緻密な仕事を成し、人間性とともに信頼性も培う。多くの経験から確実な結果を短時間のうちに導くことができ、応用科学や問題解決に役立ってきた。

科学教育において、この部分を確立するのが望ましいが、方法論にだけ固執すると人間として必要な主体的な科学するマインドが養われない恐れがある。

科学に統合性を要求する部分は、本来科学というよりも哲学的属性である。代表的なものに物理学における統一場の理論の理念がこれにあたる。

科学において統合というものは、その性質上ひじょうに特殊なもので現象論的適用は難しいが、それとは別に観念において統一することで科学的環境や人間意識のレベルの向上が望むことができる。

また、科学としてその整合性を要求するというのは、理論そのものの応用に役立つ。これは、広い意味でいえば情報の編纂になるものであるから、教育的価値、社会的利用価値も高くなる。

科学が科学的方法論によって我々に提供してきたものは、正しき世界の認識である。これは歴史的に大小含めて数々のコペルニクス的転回を行ってきたということと同等である。

そして、そこから転じて我々は科学をもって可能性を追求する理念も培って来たのである。例えば、生物化学などの学際的な領域はかつての生物や化学ではない新しい分野の開拓への可能性を求める理念から生じたものである。

これは主にプラグマティズムによる影響が、その方法論を発展させた経緯もある。したがって、かつての哲学が予測もしなかった現象を提供をしている側面もある。

それぞれの理念にそれぞれの欠点も内在している。例えば、経験を重視する場合、自分自信の体験に固執するあまり全体を見るのをおろそかにする傾向がある。

統合性や整合性を重視する場合でも、観念を現象と混同したり、現象を観念と混同してしまい自己満足的に結論づける傾向が強くなる。

可能性を追求する場合は、物質的な事柄に偏重して行き、人間の精神を疎外し、多くの混乱を招く恐れもある。

科学の進化を望むには、上の三つのどれも欠けてはいけない。それらは互いに補いあう関係であるべきで、その部分を科学者やそうでない市民が認識する必要がある。

現実的には、科学や科学者にとって高度な専門化は、ある種、免れないかもしれないが、市民を巻き込んで過去から培ってきた科学的理念の長所と短所は把握し、共有すべきである。

 

金の斧というおとぎ話で、正直なきこりが正直に落とした斧を神に申告したことから、高価正直な木こりな斧までもらえる。一方、怠惰な木こりが、前の木こりの話の一部始終から「正直に」貪欲さを表現したことによって、すべてを失うというのは有名な話である。

もし、ある木こりが神の意図を知った上で、あえて神に受け入れらるような形で「正直」に振舞った場合は、神を内心で欺くことになるだろう。つまり、木こりが本当に正直かどうかを判断する材料は、どこにあるのだろうか。別な言い方をすれば、人間の表現する本当の正直さをアルゴリズムなどの客観的指標で判断することが可能なのだろうか。

これは決しておとぎ話の世界だけではなく、日常で起こっていることでもある。例えば、学校における先生の生徒に対する評価でも似たようなことは起こり得る。この教授はこうするとよく評価してくれるから、例え疑問や問題があってもそうふるまうようになる。結局、評価する側も、もともとあった評価基準を変えなければ、評価した結果が全く逆の効果を示すこともある。また、会社や学校などで行われる面接やテストも同じである。

加えて、ルールや法律も社会では同じような矛盾に突き当たる。上記のようなことを防ぐことが難しいことは経験からも明らかだ。もし、一つの不都合を完璧なまでに防ぐように法律を定めても、市民の良心を行使する自由を縛ったり、人間の真善美を追い求める活動に箍(たが)をかけてしまうことにもなる。

このような状況を制定し、コントロールできるアルゴリズムは、普遍的に設定できないものなのか。人工知能にある深層学習などで理想の方法に近づくことはできるかもしれないが、不確定で形式が未知であるメタなアルゴリズムを永遠に探求しなければならない。哲学的に、かつ、倫理的に高い志を探求するのは人類にとっての宿命なのかもしれない。

話を戻すが、上記の「評価」と「被評価」の間で起こる動的なプロセスからみて、評価するプレーヤーが評価されるプレーヤーの精神や心根を凌駕できていなければ、相互の尊敬による主従関係が、すでに成り立たないということでもある。

教師と生徒、上司と部下、師匠と弟子などの関係も、表層的な正直さだけで成り立っているとすれば、本来、人類が求める切磋琢磨や探求には至っていないのかもしれない。

 

Photo credit: Mister-Mastro via VisualHunt / CC BY

法の下の平等が人間の権利の平等に基づいているのであれば、罪の下に人間の心は公平に扱われなくてはならない。つまり、罪を深く認識することによって人間、社会および世界の関わり合いがわかるようになる。表層的な法的判断における罪と人との扱い方からでは、法と罪との関わり合いが片手落ちになってしまう。

加えて言えば、表面的な問題点に注目して、社会が機械的に機能しているかどうか、という見方だけでは社会や世界における根本的な問題を先送りしてしまう。

そこで、罪(Sin)と犯罪(Crime)の統合的な認知には、宗教的な知性と、哲学的な知性が関連している人間の普遍的主観に帰着することが重要である。また、科学的な側面、例えば、法律学や法医学が客観的に分析するための材料を提供し本人の普遍的主観によって反省させる。

科学的過程には、主観的な相対的価値を排除するが、宗教・哲学・科学が、それぞれの役割に基づいた統合的な手法から、罪を犯した人への対応が他者による修正でありながら、犯罪者自信による修正が促される。

宗教、哲学、科学ともに、次の段階の情報を得てさらに包括的な分析のために体系を構築していく。

しかしながら、犯罪人の自己分析が常に正しいとは限らない。彼・彼女がどのような体系によって自己分析をしているのか吟味する必要がある。そこには、具体的な提言が本人の意思からなされているか、また社会に関係的であるかどうか、なども議論する。

一方、哲学や倫理的手法では、脳による理解は進むかもしれないが、行動に結び付くだけの動機づけにはならないことが多い。そこで、宗教者が行動に直接的な観念的体系と包括的な解答を説き、導くことになる。

これは、人間の精神性の根本または超時間的および超空間的な共通性に基づいた議論である。つまり、ここでは現実・現象・物質的軋轢をどのような見地から対処するかを考えさせる。これは多くの思想が過去から説いて来たことであり、普遍的で、かつ最も重要な指摘でもある。

この行程は完全な役割分担が行えることにはならないかもしれないが、その認識とともに実行することが問題の本質をつかみ、そして適切な処方箋を見つけることが可能だと思われる。

罪と罰の固定的価値感や法律の表層的な文言に対する議論には、本質的なものがなく、状況においては贖罪の山羊としての行為でしかない時もある。このように罪を通して人間が、社会が、世界が見えて来るのと時間を追って変化があるに意味がある。

同じ過ちを繰り返さないような環境を提供すること、また人間一人一人が自分自身で問題を解決していけるようなシステムを構築するための科学であり、哲学であり、宗教なのである。

法律の存在価値とは、法律化された文言が未来や違った地域によって相対的である、つまり、法律の文章として現象化されたとき絶対性がないというのが原理としていえる。a0990_001418

かつて、道徳で国を治めるか、それとも法律で国を治めるかが議論されたが、徳治主義側の理論では、法律で統治しようとすれば法の網目をかい潜って悪を犯す人が後をたたず、それは、いくら法律を改定しても続いてしまう、と法治主義の欠点を指摘し、一方、法治主義側は、道徳では罪悪を許容してしまう傾向にある、というように互いに批判していた。

どちらも正論ではあるが、すべての人間を性善説か性悪説で範疇化するという非現実な出発点から議論しすぎである。

しかし、本来は徳治と法治は同じ水準で議論しあうものでもなく、ましてや、二律背反となる事象でもないのである。

法律化されたものは、現象面を裁くのであって法律という性質上、先にも述べたが時間や空間に基準が依存する割合が大きい。それは特殊な事項になればなるほどそうなる。

ところで、科学の属性に現象化というのがあるが、法律は社会環境の整備と社会風紀の保存のために科学的に制定されたものであるといえる。

また科学性のなかに人間の認識力を深めるという作用もあり、法律は人間の歴史的認識力の変化や空間的な認識の相違を把握する手段でもある。

つまり、現状の社会や国家とはなにかを把握することによって社会や国家を人間を含めて科学的に進化させることができるのである。これは、あ
る意味エルンスト・マッハのいう科学の役割としての思考の経済にあたる。

法律を知ることによってまず第一段階として、局所的な人間と社会の関係を把握でき、第二段階として人間精神の進化への礎となるのである。この観点からみると、徳治的な観念が法律の進化を促し人間の精神を向上させる役割を担っていることも伺える。

法律の経済的意味が反映されれば、金銭的な経済と同様、豊かな社会や国家の実現が望めるのである。

人間らしさに言及するとすれば探求心なのかもしれない。実際、学問をするのは、人間だけである。一見当たり前のような考えだが、学問

学問と哲学・宗教・科学

学問と哲学・宗教・科学

を遂行することは、奥深い人間のなかの神性を見出す方法論なのである。

したがって、人間個人の知識の量を増やすことを学問とはいわない。これは、「論語」でも指摘しているように、「優れた人には情熱をもって教えをうけ、父母にはよく仕え、主人に対しては、骨身を惜しまずつくし、友人に嘘をつくことがない人は、たとえものを知らないとしても、この人物は学問を身につけているとおもえる」なのである。

つまり、ここでいう学問は、実践、誠実、信義も含んだ上に、宗教的属性、哲学的属性、科学的属性で構成されるものである。

学問における宗教性は、実相(つまり、主観と客観、アプリオリとアポステリオリの統合体)の把握と目的意識の認識。内省による人間意識の統制とその意識を越えたところで自然の背後にある絶対真理との感性的つながりである。

学問における哲学性は、自然・人間の客観的関係の知性的把握と理性的統合。その帰結として普遍性の認識。

また、学問の科学性は、合目的な抽象性の物質化、定量化、実証性、と分類において体系的な価値を見出す。それに加えて、拡張的な意味で実用性における人間への貢献。

それぞれの属性は、本来、互いに排他的事象ではない。かつての宗教には、哲学的、科学的属性が存在しなかった。また、かつての哲学には、宗教的、科学的属性が存在しづらかったし、科学にも宗教的、哲学的属性が存在しづらかった。

しかしながら、学問によって宗教、哲学、科学は統一的に、かつ、自律的に存在し得る。かつて現象的に分類された学問は実在的に一つであるが、それぞれのレイヤーとセグメントは心相において存在する。

これは、学問という言葉のもとに宗教・哲学・科学が堕落させられたわけではなく、すべてのものに崇高な精神を見出す姿勢を学問は意味するのである。

何故、人は人を殺すのか。何what is killing故、人を殺してはいけないのであろうか。汝、人を殺すなかれ、は宗教において原理的な命題であり、その原理に基づいて社会が、また人間精神の安定が営まれている。

宗教は時代精神を担うものとしてひじょうに大きな役割を持っている。したがって、観念と現象、つまり実在的世界の象徴的示唆を、その時代環境にあわせて教説することで功を奏する。

もちろん、時代環境が変われば、記述されるべき命題の意味や形式は変わるわけで、歴史的経験により具体的な議論を積み重ね、より包括できるものを構築していかなければならない。

宗教では原理として認識している中で、具体的な命題を体系学的に、どのように解釈するかが重要になる。表層的なものに集中すれば、明らかに形骸化した命題を信仰するために、多くの人々はその言葉の現象論的な意味に固着して、しかも、古典的な論理をもって詭弁を行う。それを超えることをするのは希であり、時代を重ねるごとに行き詰ってしまうのが実状だ。

話を戻すが、罪をより普遍的に考えるためには、動機や思いに帰着した見方によって論理の展開が必要になる。もし、人間の動機に基づいて評価されるとすれば、「殺したい」と思う事それ自体で罪として責められるべきなのであって、結果には依存しない。

しかしながら、社会が現象固着型の古典的な論理に依存している場合、詭弁を巧みに使い、被告の動機の表現の仕方によっては殺人などの重罪も正当化され得る。罪の存在も隠蔽され、罪人の更生や社会の修正を促すことすらできなくなる。

つまり、現象的で一時的な意味での「殺す」という言葉は、時間的、空間的な意味で掘り下げることができない。一方で、実在的な観点から「殺人」を見れば、行為そのものは実在的な素の保存性を無視することによって、全く存在しえない概念なのである。

いずれにしても、殺人とは、あらゆる概念を巻き込んでしまう。人々が「殺す」ことに拒否反応を持つことは歴史的に獲得した心理的概念なのだろうか。しかしながら、国家による死刑や戦争を通じた殺人は正当化されている。

しかも、自殺も多く起こり、それを法で規制することはできない事実もある。もちろん、倫理的に問題にならないことはない。明らかに「死」に対峙する障壁の高さをもって相対的に、自他いずれかを「殺す」ことを強制させられる人類の歴史を思い出させる。

事実、歴史を振り返れば、国家の元に、または、宗教や民族を元に多くの殺戮を人類は繰り返してきた。望まれない犠牲も多かったであろう、しかし、多くの死への記憶が相対的に「殺すべからず」に収束してきた事実もある。

繰り返しになるが、人間感情の上をいく概念でも「殺す」ことは禁じられるものなのだろう。たとえ、殺すことになんの抵抗を感じない者がいたとしても、それは、より高尚で本質的な客観的実在によって巡り巡って否定されることになる。

結局、現象または環境からその背後にある体系を認識させられるように行動すべきである。そのためには、社会学的な素養と哲学に基づいた法律的考えを駆使することが望まれる。「殺す」ということを根本的に考えるためには、常に時代と環境を考慮に入れて、具体と抽象の狭間で全体を受け入れられるよう体系を構築し続けなければならないのである。

テロリズムや銃の乱射事件、大量殺人事件を起こす原動となるものを自らの中に醸成し、それを決行する人たち
a0007_000090
をどうみればよいのだろうか。

正義という名の下で正当化する手段を発見した時に大きな力が人を突き動かす。善悪の相対性というよりは、究極の独善を成すための必要悪、もしくは、善悪を超越した思想への思い込みに基づいた偽神に代わる行為とでも言うのだろうか。人間の認識力への過大評価が自己を含めた破壊的解決に魅了される。

これを精神疾患として処理できるのかどうかである。この精神性を稚拙であると結論付けても意味があるのだろうか。精神的正常さと異常さは互いに相対的なものでしかないのではないか。

生命、死、生きること、他の生命との繋がりに関して人類にわからないことは多い。現在、分かっていることを元に独善的に行動するのは傲慢で、このことを人類は「神への冒涜」と表現してきた。しかし、その行為そのものが精神の異常性、もしくは、正常性と根本的に結び付くかと言えば、そうではない。なぜなら、正常で社会的信用のある人たちでも、そのような傲慢な行為をするからである。

この原動力は貧困や成長期のトラウマとも確実な関連性などないのかもしれない。また、外部要因による影響も良く言われるが、虐殺や排除などの正当化する文脈は、どのようなリソースからも形成され得るのである。

狂気に至るプロセスは、ある種、真実味のあるフィクションによって自己洗脳化しているようにみえる。その、生成過程は徐々に醸成される場合もあれば、インフレーション的に瞬時に、かつ、一気に増大していくこともある。いくつかの解決法など提示されているが、何を持ってして、その運動に相互作用を加え、解決に導けるかは、いつになっても不可知的である部分は排除できないだろう。

恐怖、持続的幸福、喜び、楽しみ、怒り、不安、好奇心、冷静さ、困惑、欲望、恨み、苦しみ、優越感、劣等感、絶望感、空虚感、憧憬、羞恥心、期待感、など人間の感情や心理は不連続に現れ、敏感に振れるものである。

人間の意識という未知の部分に、我々はもっと謙虚な態度で見つめなければいけないのかもしれない。

人間を犯罪に駆り立てるlaw-justice-court-judge-legal-lawyer-crime要因は数多くあるが、犯罪傾向をもつ人とそうでない人の知能的、性格的に大
きな違いはない。むしろ犯罪傾向のある人達のほうが優秀であることある。

つまり、性格的、能力的な優劣が犯罪と本質的に相関関係があるとは思えない。もちろん、ある種の性格が特定の犯罪を誘発もしくは促進する可能性はある。また外部要因として、アメリカの精神医学者ヒーリーが言うように、愛情関係で拒否されている、理解されない、自己表現の願望が妨げられているという深刻な感情、疎外感、自己不適当感劣等感、挫折感、家族内の不調和、葛藤、同胞に対する激しい嫉妬、敵意、抑圧された心的葛藤に基づく不幸感情、幼いころの行動に対する意識的、無意識的な罪責感、個人の無秩序的な判断、極端な思想などがが犯罪に駆り立てる、というのも経験上同意できるだろう。

もっと一般的に社会の不調和の原因を探っていけば思想的な影響も考えられる。そのひとつに科学主義に基づいた表層的物質思想がある。確かに権威主義からの解放は科学的思考を健全にするには重要である。しかし、科学から深遠なる抽象を分離すれば、科学万能主義や無神論的唯物思想によって暴走していってしまう。

科学万能主義的行為は自然の深部を考慮しないことである。また唯物論的な考えは、人間的見地による独断的で傲慢な行為を助長する。

宗教において神を否定するということは、数学の体系を構築するにあたって公理を設けないことと同じである。

他の科学でもその論理的体系において原理や方法論を無視しながら結果を求めることは異端とされる。

中世ヨーロッパにおいて科学の神からの分離によって神を外部にだけ存在させることになった。したがって、神を持ち出さなくても論理体系に従えば、結果が導き出せる形式にした。

しかしながら、無秩序な形で科学は進められない。秩序だった議論と真理への方向性に科学における自然に内在する神秘的な部分が垣間見られる。

神的な視点というものを別な表現に置き換えれば無限遠における正しき目的意識といえる。逆に、非深慮的世界観は正しい方向性を否定した思想である。

正しいと思われる方向から外れれば、どのような結果を導くのだろうか。人間の感知できる物質や思想がすべてと思い、すべてを取り囲む世界が、そのレベルでの相互作用の結果とみる。

未来が全くの偶然の結果でしかないとすれば、刹那的に自己を満足することしか考えなくなる。また、自身に都合の良い神だけを信じるのであれば、悪い原因はすべて外部からくるものとし、責任を転嫁してしまう。

法律で規制しようとする考えも統治する側の利己心からでしかなくなり、人々も法律の網の目をかいくぐろうとしか考えない。

人間不信になり自虐的であれば、精神障害もしくは自殺にまで自分を追い込み、他虐的ならば、傷害、殺人で他者を追い詰める。

自分の有利になるような情報しか流さず、どの情報が正しいのか間違っているのか判断ができなくなり、ついには良心さえ感じなくなるなるだろう。

犯罪は社会の調和を乱す原因になる。社会における人間もしくは、それにまつわる諸々のエージェント、つまり、社会の潜在エネルギーは人々の秩序だったエネルギーと無秩序的なエネルギーの差異によってきまる。

無秩序性は主に犯罪に起因するが、それらを考慮し社会全体を調整するのが社会に鑑みた法律である。調整を誤ると社会の全体性を歪ませる。

倫理的な観点から、社会の責任は人そのものの尊重からはじまる。生きる権利の平等を原理的に保証することから始まり、その原理を否定するものが犯罪などを誘発する。

個人の権利の確立は法律と相補的に秩序を正す役割でなければならない。表層的な文言における法律はそれ自体に価値はなく相対的な指標として存在し、人類の思考の経済化の手段として倫理的価値を補う立場にある。

一方、倫理は環境と法律の歴史を吟味することによって、より一般的で具体的な価値観として進化する。

宗教性からみると自分と他人の間に境界を設けない超規則的な観点を与え、犯罪というものは相対的な状態として認識する。つまり、現象面からは充分な条件として罪を裁定することはできず、同じレベルにあるため、人が人を裁くことが絶対的にできないということである。

自分の罪を自分で認める行為に対して人は、その罪を消化するしかなく、罪であるかないかの評価は、実在的に即決されるが、現象的には時間経過が伴う。

宗教的な実在的見地は普遍的傾向が強いため、本来の実質的観点として倫理と法律を含み、また含んだ形で認識されるべきである。